黒殿神社の由来
須恵町、高鳥山に城があった頃、大隈の丸山は高鳥井城の出城として前衛の役目
をしていました。しかし高鳥井城の戦いが激しくなり、丸山は落城しました。
その城にいた黒殿の姫は悲しみの果て落城を前にして家臣に首を切らせました。
首は尾根を転げて山麓に落ちました。大隈の人たちは姫の死を憐れんでその
場所に祠を造り黒殿様として祭りました。
丸 山 を 散 策



粕屋町のシンボル(丸山)は、たくさんの花々が咲き、素晴らしい眺めです春は桜 夏は緑の木々 秋は紅葉 冬は雪景色と四季を満喫できる素晴らしい山です

大隈公民館 大隈御霊神社
登山口(貴船・愛宕神社)) 大隈御霊神社(登山口)
絵馬堂
丸山の全景 丸山雪景色
遊歩道 丸山山頂
山頂の桜 山頂から見た粕屋町
丸山の頂上で 桜 を見ながら お龍り・・


山頂の東屋
丸山城の歴史

室町時代から戦国時代(安土、桃山時代)にかけて、山口を拠点としていた
守護大名の大内氏が筑前国も支配し、大内氏の家老である杉氏が、高取井城
(須恵町)を本城としていた大内氏に代わって筑前国を治めていました。その時
高鳥井城の出城として築かれたのが丸山城と言われています。
戦国時代になると大内氏は滅んでしまい、杉氏も丸山城や高鳥井城を離れて、
鞍手方面へ移ってしまいます。
筑前国は、武将勢力が支配権をめぐって争う状況となりました。其の頃の丸山
城がどのようになっていたか詳しい記録はありませんが、杉氏の家臣であった
黒瀬氏によって守られていた可能性が高いと思われます。

大内氏と大隈の関係。

この大内氏との関係が河津氏を通じてか、或は杉氏を通じてか根拠がない。河津氏
の歴史を述べる中で河津氏と大内氏との深い関係は解明していかなければならな
いが、八尋氏と河津氏との関係は、河津氏、大内氏の関係よりはるか古い時期にまで
戻らなければと考えられる。

丸山城の堀について


丸山城で戦いがあった場合、頂上の平坦な場所(主郭)に集まって城を守りま
す。頂上の西側から南側にかけては、周りを囲むようにして長い堀(横堀)があ
り、東側から北側にかけては、短い堀(竪堀、堀切)を何本も掘って敵の侵入を
防いでいました。斜面の急な南側よりも、集落がある北側の守りをを重点的に
固めています。
堀の配置の仕方から、戦国時代の終わりごろ(1580年頃)まで使われていたと
見られます。